小説が書けない

小説が書けない時、代わりに吐き出す場所として

砂金(掌編小説)

ネタに使った人達、端的に言ってごめんな、ありがとう、ごちそうさま。

 

――

「御岳ちゃんの剣道はさ、なんていうか怖いよね」

そう言われた時、私は一心不乱に皿の隅のキャベツをつついていて、一瞬それが自分の事だと分からなかった。

「…はい?」

顔を上げると、アルコールが入った先輩の赤ら顔。

「迫力っていうか…殺気みたいなのが漂っててさ、一本一本に邪念が漂いまくってるような…あー、それで強いから何も言えないんだけど」

「別にそんなつもりは、ないんですけどねえ」

とりあえず、控えめに否定する。けれどももう先輩は聞いていなくて、隣の女の子と上機嫌で話し始めていた。後輩のその子はウーロン茶を片手に笑顔で先輩の話に相槌を打つ。それを私は黙って眺める。奥の方では男の部員同士で大騒ぎが繰り広げられている。一年生が下着まで脱がされそうになって逃げ回る。上級生は鍛え抜かれた上半身を露わにしたまま一年生を追いかけまわす。部の優勝祝いなんて、どこだってそんなものだと思う。

「もっと理性的にならないといけない」

そんなことを先輩は言った。哲学科に通う先輩で、あだ名はそのまま“哲学先輩”。ちなみに、剣道のほうはてんでダメだ。

「間違ってもあんな馬鹿はしないようにしないとね。あんなのは、なにも考えていない馬鹿のすることだ」

そう言って先輩は大騒ぎする男子部員たちを横目で見る。奥の方のらんちき騒ぎを見て、後輩がけらけらと笑う。私はハイボールを頼む。酸っぱい葡萄、心の中でそう毒づいた。

「先輩は何か飲みますか」

「あー、うん、焼酎を頼むよ」

おざなりな返事を聞きながら、やってきた店員に注文を伝える。後輩の女の子が追加であんずサワーを頼む。

「そういやさ、さっき頼んだ牛串まだ来てないんだけど」

「すみません、ただいま大変混み合っておりまして」

「混んでるとかそういう話は聞いてないんだよ。遅いのはそっちがモタモタしてるからだろ」

みんなもっと考えた方が良い。先輩はそう言って自分の仕事論だとか、人生論だとかを語り始める。店員と私と後輩は、揃って曖昧に笑いながらそれを聞く。どこか別の場所でも、店員の謝る声が聞こえる。先輩はまた、正しいだけのことを言う。どこも間違っていない、私なんかの頭じゃあ反論も思いつかないような正しい言葉の羅列。先輩は話の合間に酒を飲む。どんどん顔の赤みが増してきて、どんどん饒舌にいろいろなことを評価し始める。机の下で箸を折る。誰もそれに気付かない。心の中で店員に頭を下げる。そんなことをしても、店員には伝わらない。

わたしはこの人が嫌いだ。正しい事を知ること、言うこと、為すこと、全部天と地ほどの差がある。正しい事を言うのはいつだって気に入らない人を叩くためだし、正しい事を知るのは、いつだって自分が正しいんだと薄っぺらな自己を守るためだ。そして、正しい事は何もできない。この世界には、そんな人が沢山居る。

他人を否定できる理由。知らないのだ、誰かが自分より弱いのか、それとも自分がまだ自分の弱さを知らないだけなのか。自分の強さも弱さも、その時が来るまで分かりはしない。大人になるまでにそれを知る時が来るのは、幸せなのか、不幸なのか。失敗するのは怖い。けれど、それを知らないまま大人になった人間は、失敗した不運な人達にどこまでも冷酷になれてしまう。

話を聞き流しながら、ジョッキの中のものを一気に飲み干す。身体が芯から熱されていく、頬が、額が燃えるように熱くなる。ぼやけて揺れる視界の中で、先輩の背中側、騒ぐ男子部員や賑やかに話す女子部員達が、遠い星々のように輝いて見える。

誰が正しいのか?誰か正しいのか?いくら正しい事を言っていても人を貶める事しかできない人、ただ、一時の熱の渦の中で踊り続ける人達。何も考えていないようにけらけらと笑う後輩と、何もできず、何も言えないままアルコールを呑むわたし。そのどれか一つでも、正義があったり、幸せがあったり、神様が居たとして赦してくれるような、そんなものだったりするのだろうか。何も考えたくなくなって、ジョッキを放り出すように机に叩きつける。

わたしは先輩の話を遮るように、他愛のない、毒にも薬にもならない日々の話を始める。自分の科の授業のこと、部の外の友人のこと、面白く聞かせられるものだけを、面白く聞けるように話す。先輩は面白くなさそうに頬杖をついている。後輩の女の子は、その他愛もない話を面白くて仕方がないようなふりをして聞いている。

本音を言わないのは、それを言わない方が良いからだ。人はよくそれを忘れる。本音で語り合って、分かるのは分かりあえないことだけだったりする。私には分からない、仮初めでも続く平和があるのなら、そこで暖を取るのも悪い事じゃないのではないだろうか。ただ、私はその輪に入らないし、入れない、それだけの話で。

このテーブルは出島だ。輪っかに入れなかった人だけがここに居て、へろへろと上辺だけで笑ったり、不満を言ったり、むっつりと押し黙ったりしている。私は、集まって騒ぐ対岸の彼らを、みんなで笑う彼女たちを羨ましいと思う。彼らは、私から見れば宝石のように輝いている。たとえその幸せが今一瞬の刹那的なものだとしても。過去には後悔しかない。未来には絶望しかない。そんな生活の中で、今一瞬の輝きに身を任せるのを誰が責められるのだろうか。

真っ赤な顔をした幹事が出てきて、会がお開きである事を告げる。酔っぱらって千鳥足になりながら出ていく人、立てなくなって、他の誰かに肩を抱かれて引きずられるように出ていく人、その後ろを、影法師か幽霊みたいについていく。

「こんなバカ騒ぎに参加させられて、それでお金取られるのは割に合わないなあ」

後ろに居た哲学先輩が、わたしだけに聞こえるくらいの小さな声でそう言った。

「良かったら、次から私が、先輩は用事があるらしいって伝えておきますよ」

「いや、いいよ」

私の言葉に、慌てた先輩が首を横に振った。私は笑って、それ以上何かを言われる前にそこを後にする。お酒は人前ではあまり飲みすぎないようにしないといけない。理性を失って、私の鋭い部分が外に出てくるのは怖いから。

会計担当の部員に代金を渡す。全財産残り300円、バイト代が振り込まれるのは明後日だ。途中でスーパーに寄って、食パンを買って帰ろうと思う。

ふと空を見上げる。真っ暗な曇り空。日が変わったばかりの空は曇り、月や星の光なんて欠片も見えやしない。街灯の光だけがキラキラと輝いている。

火照った顔に当たる夜風が涼しい。立ち尽くす私の周りで、名残惜しげに騒ぐ部員達。このまま、別の場所に遊びに行くものたちも居るようだ。

アルコールを飲んでしまった。今日の薬は飲まない方がいいだろうか。誰にも言えないすべてのこと。飲み干すように、安い煙草に火をつける。何もかも忘れるには、もう全てに馴染みすぎた。

「あたしにとって日々の幸せは、砂金みたいなものなんですよ」

いつも自分からは喋らず、ただニコニコ笑っているだけの彼女が、そんなおおげさな、詩のような台詞を叫んだから誰もが驚いて振り向いた。

「さらさら零れていくそれを求めて、あたしは何度も泥の川の底を攫うんです。それが、あたしの生活なんです」

さっきまで笑顔だった後輩の女の子は、叫びながら泣いていた。あんまり急なことだったから周りの何人かはぎょっとした顔で足を止める。

「いいよいいよ、わたし降りる駅一緒だから、送ってく」

わたしは屈みこんで、膝を抱えて泣く彼女の頭を片腕で抱く。わたしを含めた何人かはもうそんなに驚いていない。この子はたまにこうなる。だから遠慮して、あんな出島にいたのだろう。

「すいません、助かります御岳さん」

眼鏡をかけた、真面目だけど不器用そうな顔の男の後輩が頭を下げる。そして、すぐに笑顔に戻って人の輪っかの中へ戻っていく。遠くなっていくうしろ姿にひらひらと手を振ってみたけれど、それを見る人間は居なかった。

その子がなにか大変らしいことは分かっている。どれくらい、どうして大変なのかは、よく分からない。できることなら楽になって欲しいけど、自分から助けようとするほどには日々の生活にも余裕がない。だから、普通の子と同じように接して、こうなった時だけ静かに介抱をする。わたし以外にもそんな人間が何人かいるのだろう。

「そんなんじゃ帰れないだろ、背負ってくよ」

彼女を無理矢理背負って、立ち上がる。びっくりするくらいに軽い体だ。

「…先輩、」

「わたし達、お酒弱いなあ」

彼女が謝りそうだったから、それを遮るように言って、笑う。

「座席選択誤ったかな」

「あはは、ごめんねムスッとしててさ」

「意地悪言わないでくださいよ、先輩」

他愛もない話をする。他の人の話、送る日々の話、全部、自分の深いところはなにもさらけ出さずに済む話だ。それも長くは続かずに、わたしは彼女を背負って無言で歩き続ける。そして、ゆっくりと彼女は口を開く。

「昨日ね、別れたんですよ。また、あたしが重すぎるって理由でした。不公平ですよね、なんであたし達だけこんなに大変な思いしなきゃなんないんだろ」

わたしは何も答えない。彼女のことは、何も分からない。だから、彼女の脆くて危うい場所についてかける言葉は、見つからない。

「先輩もそうなんじゃないですか?」

「失礼なことを言うなよな」

だって、先輩がみんなと居る時に笑ってるとこ、見たことない。茶化して笑おうとしたら、彼女は拗ねたようにそう言った。

「下手なだけだよ、笑うのがさ」

大騒ぎや、賑やかな人の輪。きっとその中にも、言えない苦しみを抱えたまま、わたしよりずっとうまく笑えている人が居るのだ。わたしには、それすらもできない。

「ちゃんと頑張ってるあたし達の方が、絶対に偉いんですよ、何も考えてないような人よりも」

吐き捨てるようにそういった彼女の表情は、背負っていたら見えない。わたしも見えないところで、曖昧に笑顔をつくる。

「どうなんだろうね」

苦しむことは、ただそれだけの意味しか持たないと思う。私は昔、あなたの分まで幸せになるからね、と言った。それから何年か経った今も、私は幸せになれずにいる。痛みは痛みのままで、私が失ってしまった命は、今のところ、なんの意味も持ちはしないのだ。

でも、彼女にはそれを言わない。私はいつだって、傷つけないために寡黙を選ぶ。そして、悲しまないためには何も知らなければいい。何も為そうとしなければいい。でも、私は生きて何かを掴まなければならない。だから、仕方なく生活をする。

近くの自販機で百円玉を入れる。外れることが分かりきったデジタル数字のルーレットを見ないで、出てきたアイスココアを後輩の頬に当てる。

「酔ってる時に飲むとうまいんだ」

わたしにとっては三分の一であっても、彼女にとってはたった百円ぶんの親切だ。人とのかかわりの中では、よくそんなことがある。自分の中でどれだけ大きくても、外に出せばたいしたことないなんてのは。

「でもさ、楽な方がいいよな。私は、できるなら苦しまずに生きたいよ」

私にとって、生きることは苦しい。それは生まれたときから決まっていたことだ。どれだけ騒いでも明日はやってくる。どれだけ笑っても日々の生活は重くのしかかってくる。明日のレポート、来週のテスト、週四の部活に週三のバイト。

母から、父がボケ始めたと連絡があった。母は昔と変わらないようにヒステリックにまくし立てた。わたしは聞いていられなくなって、受話器を置いてしまった。そして、初めて着信拒否をする相手ができた。もうこれ以上、あの人の面倒は見る気になれない。家を出るまでの間に、我慢し続けたのだから。正しさは私を幸せにしてくれない。それを教えてくれた事だけは、感謝しているけれど。

「あーあ、先輩みたいな優しい人だったらなあ」

彼女は一言そう呟いて、渡したココアには手を付けないまま寝息を立てはじめる。

まったく、子供だ。この子も、わたしも。

私は、苦しくても生きねばならない。償いきれないくらいに積み上がったささいな罪を、それでも償わなければならない。生きること、自分の罪を知ることだけが、僅かにでも償いになる。そう信じて今も日々の生活をなんとか送っている。私がかつて犯した罪を、人は大したことじゃないと笑うのだろう。他の人のことなんて、なんだって大したことじゃないのだ。変わり続ける事だけが生きることだ。昨日を悔い続けて、そうやって大人になっていくしかないのだ。

かつて、私は轟々と燃え盛るろうそくの炎のように生きていた。燃え尽きることが本望であるように、何もかも全部燃やし尽くすように。けれども、もうろうそくの火は消えてしまったのだ。残ったのは僅かな溶け残りの蝋と、汚いすす。振り返ると、ずいぶんと昔のことのように思える。

また日が昇る。明けない夜はない。けれど、毎日夜はやってくる。いつか、夜を越えられない日がやってくる。それまでは、波を繰り返しながら、少しずつ良くなっていると信じるしかない。

どうしようもない過去と未来の間で、私はこの子を背負ってゆっくりと歩いている。

承認を求める。わたしは他者からの肯定に飢えている。それも偽ったうわべの自分ではなくて、奥底に眠る、醜くてするどいわたしを誰かに赦してもらいたいと願ってしまっている。ここに居てはいけない。自分が自分であることを赦せるようになりたい。そのために、自分が自分であることを赦してくれる誰かに出会えるように。なにもわかんないけど、わかんないから、歩いていくしかないのだ。

終電まではまだ時間がある。このままゆっくり歩いても、十分に間に合うだろう。賑やかな声が、まだ背後から聞こえてくる。名残惜しくて振り返っても、もうどこにも彼らの姿はないのだ。彼女を背負って、反対側の駅へと歩き出す。

耳元で静かな息遣いを感じる。垂れ下がった髪が首筋をくすぐる。もう一度空を見上げる。砂金のような星の煌めきは、今日は見つけられなかった。

 

(完/砂金)